能登の意気二度目の夏をより熱く

飛鳥より天と地結わう心柱
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宇出津あばれ祭り

能登町恋路火祭り

能登町柳田大祭

能登町柳田大祭

八坂神社西楼門

疫神社
| 石川県能登町あばれ祭り | |
| 日 程 | 令和7年7月4日(金) 5日(土) |
| 会 場 | 石川県鳳珠郡能登町宇出津新1-19-1 宇出津 祭礼当日は臨時駐車場は設けることができません。また、道路には凹凸がございます。特に夜間の歩行では、足元に十分ご注意をお願いいたします。 詳細は、あばれ祭りのホームページをご覧ください。 |

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童より大河の国の泥合戦

のぼうの城の映画は楽しかったです。映画を全編見たわけではありませんが、動画のダイジェスト版を何回も見ました。
忍城を統治した成田氏は、かなりの名族だったんですね。
上杉謙信の鎌倉の鶴岡八幡宮での関東管領の拝賀式において、忍城城主成田長泰はひとり下馬をせず泰然としていたそうです。謙信は長泰を見とがめ、何故下馬をせぬかと問い詰めます。長泰は、
「成田家は藤原摂関家の系譜をひくもの。源義家公にも馬上礼を許された家柄。下馬する理由がありませぬ」
この返答に謙信は烈火のごとく怒り、長泰の烏帽子を扇で叩き落したと伝わります。
長泰にもプライドがあります。満座の中で辱めを受け、怒り心頭だったと思います。その日のうちに領国に帰り、以後北条氏の傘下に入ったといいます。
今の時代ではピンときませんが、「家」とは武士にとって命にかえても守らなければならない存在だったんでしょうね。今の埼玉県、昔の武州においても群雄が割拠する時代であり、武蔵七党などが活躍していたそうです。その中でも成田氏は北武蔵の雄として、百年にも及ぶ統治をしていました。
戦国の世は同時に、現代でもそうだと思いますが、軍事力を核としながらも、持てる国力をすべて動員した戦いであったと思います。加賀の一向一揆とか、島原・天草の乱とか、武力を包摂するかのような民衆の支持が厚い地域は強いですよね。
映画「のぼうの城」はエンターテインメントであり、史実と脚色の境界がはっきりわからないところがありますが、そんなこだわりはヤボだと思います。
2万超の大軍を相手に3千ほどの兵と領民が、小田原本城が降伏するまで持ち堪えたことだけでもすごいです。いや、本城の降伏後も十日ほど、戦いを続けたことは実に驚異的です。
のぼう様と周囲から親しまれた成田長親城代と領民の戦いには、胸に迫るものがあります。
今回、忍城の記事を書くにあたって、様々なウェブ上のサイトを見せていただきました。特に『「郷土忍の歴史」行田郷土史研究会2012』は大変勉強になりました。厚く御礼申し上げます。
そのウェブサイトのなかで、非常に印象的な記事がありましたので、引用と御紹介をさせていただきます。
忍城と豊臣軍との攻防戦は、その兵力の差が余りにも大きく、城方も疑心暗鬼になったことと思います。特に、戦にはつきものの「内通」は一気に戦局の様相を変えてしまいます。
忍城下に「龍淵寺」というお寺があり、そこに呑雪という僧がいました。城方の重臣は、
「僧は三河が生国。敵側に内通してはおるまいな」と詰問しました。
僧は淡々と返答をしました。
「僧侶は戦場ではお役に立ち申さず。兵糧を費やし、足手まといになるのみ。僧侶は世捨て人。命財宝もとより惜しまず。ただ戦にて命を落とす者あれば、手厚く弔うのみ。」
さらに包囲軍に対し、丁重な書簡を送りました。
「生死を争う御身の一時の興に、欲しいものは好きに持ち帰られよ。今、饗応の支度を命じた。ゆるゆる休息されますよう」
寺の品々を略奪をした敵はこの言葉に自らを大いに恥じ、一品も犯さず奪ったものを返したといわれます。
浅野長政は戦奉行の家康にこの一件を報告したところ、家康は龍淵寺に制札を立てさせ、寺内での乱暴を禁じたといいます。
策士策に溺れるといいます。世を捨てた僧には、逆に人の心を揺さぶることができるんですね。
呑雪和尚の逸話は、北武蔵の誇りと風土を表しているように思います。
秀吉による小田原征伐の軍の進撃は破竹の勢いでした。
箱根旧街道を進撃した秀吉本隊。北条側の西の重要な防衛拠点の山中城を一日足らずで落とします。山中城は北条の築城術の粋を集めたといわれる、障子堀や畝堀が知られていますが、いかんせん、豊臣軍の大兵力の前に涙を飲みました。若き真田幸村も松井田城攻めに活躍したといわれる北国軍。さらに江戸城、河越城を攻め落とし館林城まで一気呵成に降伏開城させ、反転して忍城に踵を返すは石田三成の一軍でした。
豊臣側の軍勢は総勢20万とも21万ともいわれます。迎え撃つ北条側は5万余り。
16世紀末、日本の人口はどのくらいだったんでしょうか。20万って、すごい人数ですよね。現在の自衛隊の隊員の実数は22万余りといわれます。
436年前の日本において、豊臣軍と自衛隊の兵員数がほぼ同じっていうことに驚きます。
秀吉は恐らく小田原北条氏の降伏後の日本の統治を見据えて、盤石な最高権力者の地位を不動のものにしようとしたんではないでしょうか。
忍城の水攻めはその文脈から見ますと、備中高松城の場合に比べて強引さが感じられます。高松城を包囲した堤防は4Km。一方、忍城は北に利根川、南に荒川が流れ、城の川下に弧を描くような、半円形の形で堤を築きました。
石田堤とは、後の世での呼び方と思いますが、その総延長はなんと28Km!
高松城の7倍の堤を、工期はむしろ高松城より短期間で完成させているんです。
石田堤決壊が、梅雨の豪雨によるものか、あるいは忍城側の工作によるものか、どちらにしても、秀吉の高松城の成功体験が焦りを招き、堤防の脆弱性につながったのかもしれません。
秀吉は満天下に自身の武威を示し、全国津々浦々にその名をとどろかせ、人々を畏怖させようと、大仕掛けの水攻めを命じたものと思われます。
藻の花や人の群落また花よ
姫の檄笑いは勝ち鬨泥化粧

「のぼうの城」の動画のアイコンで、いい画像がありました。
城代の成田長親と、長親の姪にあたる甲斐姫とが、互いの頬に泥をなすりつけて大笑いしています。映画には、豊臣軍との生々しい戦闘のシーンもありますが、とにかく長親城代と領民とが親しく交わり、時に対等に近い会話が飛び交ったり、笑いが起きたりします。
北武蔵といわれる埼玉県北部と、「つる舞う形の群馬県」といわれる鶴の首の部分、群馬県東部とは、利根川をはさんで古来から交流が盛んでした。群馬県側には難攻不落を誇る新田金山城があります。麓からは車で一気に頂上に築かれた本丸まで登れますが、その道はつづら折りにして急な傾斜です。本丸の城壁は堅牢な石垣です。籠城戦に備え、日ノ池、月ノ池といわれる水がめが、この城の城兵の覚悟を伝えているかのようです。
忍城の戦いのヒロイン、甲斐姫のルーツはこの新田金山城といわれます。
後北条氏からの侵攻が激しかった頃、城主由良成繁の妻妙印尼は、甲斐姫の外祖母にあたるそうですが、御年古希を過ぎながら戦いの先頭に立ち、城を守り抜いたと伝えられています。
甲斐姫の活躍には、このようなエピソードが違和感なく感じられます。
甲斐姫の活躍ならびに城兵や領民の活躍は、「行田郷土史研究会」様によるウェブサイトに詳細に語られています。
城主成田氏長は既に小田原本城に駆け付け不在の中、忍城には太田道灌の血を引く奥方が守っていました。北条側の支城が次々に降伏する情報が知らされるも、奥方は忍城下に住むすべての人々を城内に招き入れ、豊臣の大軍を恐れず、3000余の人々の総力を挙げ、戦うよう呼びかけました。衆議一決、老若男女、身分の差なく軍議が決しました。
本来、非戦闘員が籠城戦に参加することは、逆に戦局が不利になる場合が多いですよね。忍城においては、そうではなかったことが結果が証明しています。
いざというときに備えた米穀を城内に運び入れる人馬の列が引きも切らなかったそうです。戦闘の場面では、童子たちは農民とともに小旗を振り、大勢の兵がこもっているかのようにも。
指揮系統も城代の長親公が、見事な采配を振るいました。
天は自ら助くる者を助くといいます。忍城を包囲した石田堤の決壊は、包囲軍の焦りから生じたのかもしれませんが、意思を全員で貫く場面において、神は人々を救ってくれることがあるんですね。
わたくしはどうしても甲斐姫の「その後」を知りたくって仕方がありませんでした。
伝承によれば、甲斐姫は1572年の生まれと伝えられます。
成田家に代々伝わる名刀「浪切」を引っ提げ、城門前の隘路では泥田に足をとられる敵、浅野長政や真田昌幸・幸村の兵を討ち取ったといわれます。
最終的には、小田原本城の氏長城主からの開城の要請を受け入れ、城を開け渡しますが、長親城代や甲斐姫たちが城を馬に乗って退去するとき、領民がこぞって拍手を送り、感涙にむせんだといわれます。
甲斐姫は東国無双の美女にして男勝り。緋縅の甲冑姿も凛々しい姫武将といわれます。裸一貫から天下人に上り詰めた秀吉は、是が非でもわがものにしたかったんでしょう。大坂城へと姫を連れて帰ったといわれます。
いかなる人にも死は訪れます。秀吉が自らの死を悟ったとき、醍醐の花見を催しました。
平成24年(2012年)ですから、まだ最近のことですね。この醍醐の花見に列席したときに詠んだと思われる和歌の短冊が発見されました。
短冊に120番目と記された和歌とその経緯を、ウィキペディアの記事「甲斐姫」より、引用と転載をさせていただきます。
“相生の松も年ふり桜咲く花を深雪の山ののどけさ”
短冊の署名には「可い」と記されています。
この短冊の歌が、果たして甲斐姫が詠んだものか、はたまた、甲斐姫が実在した女性かどうか、わかりません。
わたくしなりに勝手に想像してみました。
当時、秀吉は敵対勢力を滅ぼした際、苛烈な処罰をしました。小田原の城主たちも切腹、もしくは剃髪、隠棲です。ところが、忍城の城主氏長、長親城代などは蒲生氏郷の預かりとなり、さらに下野において領地を与えられ、厚遇をされました。この異例な厚遇は、甲斐姫が秀吉の側室となり、秀吉の外戚として認知された結果なんでしょうか。そうに思えば、醍醐の花見にも列席し、和歌が大切に保存されていたことも納得できます。
醍醐の花見から5か月後に秀吉は生涯を閉じました。
運命は過酷な一面があります。
大坂夏の陣において、秀頼、淀殿、主従ともども、炎上の大坂城にて自刃しました。
伝承によれば、甲斐姫は炎上する大坂城より秀頼の子、奈阿姫と国松丸を助け出し、奈阿姫とともに鎌倉の東慶寺に落ち延びたといわれます。
甲斐姫は淀殿と親しく、武勇と教養を兼ね備えた守役として仕えていたんでしょうか。
その後の甲斐姫の消息は一切資料からはたどれないそうです。
恐らく、敗軍の将に連なる縁者として尼僧になった身を隠し、天秀尼と名をかえた奈阿姫とともに、様々な苦しみを背負った女性たちを東慶寺において救済することを、自身に課したのかもしれないですね。
醍醐寺の桜の雨に遊ぶ蝶われも翔びたや忍のあづま路

