夜叉の面御陣乗太鼓波の花
尾根天へ湾の碧さよ七尾城

しばしば難攻不落の城といわれます。しかし、七尾城は天然の要害という点で群を抜いています。標高300メートルの尾根筋は大軍を阻むが如く、か細いほどの幅しかありません。また、尾根筋の要所要所には削平地が築かれ、重臣たちの屋敷とともに、敵を狙撃する狭間が待ち構えています。
いわゆる山城であることは事実ですが、東西1キロ、南北2.5キロという長大な城郭は、山の地形そのものを防御に活用しています。七尾とは七つの尾根に由来しているということも頷けます。
しかも、城郭が総構えといわれる、整然とした作りです。往時は守護大名能登畠山氏として、七尾は能登の中心でした。応仁の乱の時代には難を逃れて来た公家たちにより、京の文化もこちらで独自の進化を見たといわれます。
時は、天正4年(1576年)、上杉謙信は能登平定を決意し、来るべき織田信長との決戦に備えようと、七尾城攻めを開始しました。時に謙信は46歳。没年は48歳ですから、晩年の戦いとも言えますが、天下獲りを見据えた一大軍事作戦でもありました。
「軍神」とも「越後の龍」ともいわれ、戦国最強とも恐れられた謙信も、さすがに七尾城は一筋縄ではいきません。北へ延びる各支城の攻略にも踏み切りました。
能登半島の外浦、現在は輪島市名船町、当時の名舟村は漁業も盛んで、白山神社を祭神とした祭礼も住民こぞって行われ、まとまりの良い村でした。戦国時代の武力がすべて、という掟は相手を選びません。むしろ、名舟村のような山海の宝庫といわれるところほど、武力に蹂躙されてしまいます。
謙信の能登平定の余波といったらいいのでしょうか。
「御陣乗太鼓」のエピソードはそんな時代に生まれ、名舟村に長く愛されつつ受け継がれています。
リスペクト古老の一計深い皺
異形の面妖怪の群れ敵散らし

ⓒ石川県観光連盟
「御陣乗太鼓」は、昭和38年(1963年)石川県指定無形文化財として登録されました。
現在、石川県内はもとより、日本各地で公演が行われ、海外でも行われています。
また、EXPO2025大阪・関西万博会場においても公演が予定されています。
・2025年8月27日(水)
・大阪万博EXPOアリーナ「Matsuri」会場にて
詳細は、「御陣乗太鼓保存会:トップページ」にてご確認ください。
夏は能登半島各地で、それぞれ趣向を凝らした、個性的な祭礼が行われます。
都会に出て活躍されている方たちも、盆暮れは帰れなくても、地元の祭りだけは帰ってくる、といったお話もよく聞きます。
「御陣乗太鼓」も、名舟大祭の神事として奉納されます。
なにより、あの上杉軍の侵攻を村人全員で撃退したっていうところが痛快ですね。
ひとつ間違えば、村が壊滅したかもしれません。
強いものほど、神を恐れる。強いものほど、神仏や怨霊には恐れおののく。
名舟村の古老は、いわば無血かつ非武装で村を守りました。
それは、自分の村も、相手の兵さえも。
結果から言えることかもしれませんが、怖れを乗り越えた、普遍的な愛の力が、御陣乗太鼓の奇跡の伝承につながったんではないでしょうか。
村の衆名舟を守る成らずの歩
龍いづこ古老の一手に四方へ散り

ⓒ石川県観光連盟
名舟大祭の祭神は、奥津姫神社に祀られています。奇跡の御陣乗太鼓の勝利も、名舟の人々は、奥津姫の神霊によるものと、例年7月31日、8月1日に行われるそうです。村人に「しらやまさん」と親しまれ、名舟町ひめ神社下にて行われます。
写真のような名舟の浜と思われる場所での、本格的な御陣乗太鼓の公演って、姿・形・所作など昔のままだと思われます。
名舟の男衆のみ、バチをたたくことが許されるとのことですが、人口減少や復興の様々な問題もあり、その存続も厳しいようです。官民あげて、この素晴らしい伝統芸能を見ていただきたいですね。