鎌原に自治と平等気風満ち

鬼押出し園
眺望良好!
北アルプス・谷川連峰・日光男体山まで一望できます
親族ぞ!門出を祝う酒肴
天明3年浅間山大噴火 その2
天明の大噴火は天明3年(1783年)4月に火山の鳴動が始まり、その噴火物は北方向、嬬恋村や長野原町方向にV字形に広がりました。浅間山は活火山として著名ですが、この爆発は有史以来最大の爆発でした。3か月ほど続いた噴火の後、7月についにそのピークを迎えました。山肌に堆積した噴出物は鎌原火砕流となり、一気に下流の村落を襲いました。この時、浅間山の北麓に形成された溶岩地形が鬼押出し園です。上毛かるたでは、“浅間のいたずら鬼の押出し”と詠んでいます。
天明泥流は吾妻川利根川の流域を壊滅させながら、巨大な岩塊をも巻き込み、100Km以上押し流しました。現在でも、群馬・埼玉・長野を中心に「浅間石」が見られます。降り注ぐ火山灰は空を覆い、昼でも暗闇のような状態でした。押し流された人々の遺体は遠く江戸湾まで、また千葉県銚子から太平洋まで流れ着いたといわれます。
今、この地を訪れますと、そんなことが遠いことと思われるくらい、素晴らしい光景が広がっています。群馬県嬬恋村と長野県軽井沢町を結ぶ道路に、鬼押しハイウェーがあります。軽井沢町は有名なリゾート地ですが、嬬恋村も江戸時代は宿場町として栄えました。良くも悪くも身分社会の習慣が強かった時代です。そんな時代にあっても、大噴火により壊滅的な被害を受けた村を、再びつつましくもみんなが助け合って、楽しく暮らす村へ復活するために、鎌原近隣の長老たちが大きな決断をくだし、村人たちに熱く語りかけました。古文書は絶望的な状況から、鎌原村の再建を目指す人々の様子を次のように残しています。
復興
発災後、幕府はすぐに復旧事業を行なった。最大の被害を受けた鎌原村には850両(約1億円)の復興資金が幕府により支払われた[98][注 11]。
近隣の有力百姓である大笹村黒岩長左衛門、干俣村干川小兵衛、大戸村加部安左衛門らが直ちに救援活動を行い、生存者を支えた[98][106][124]。鎌原村の復興は、家族の再構成や家屋の再建、荒れ地の再開発・再配分などによって行われた[105][106]。
幕府の復興対策責任者となり現地に派遣された根岸九郎左衛門の随筆『耳袋』には、以下のような記述がある (現代語訳)[98][125]。
当時の百姓たちは、家筋とか素性といったことに大変こだわり、相手に応じてあいさつの仕方などにも差別があった。例えば、現在は金持ちでも、古くからの由緒がある有力者でなければ、座敷にも上げないといったことがあった。
浅間山噴火の被災者を収容する建物を建てた当初、3人の者たち(黒岩長左衛門・干川小兵衛・加部安左衛門)はこの点に配慮して、「このような大災害に遭っても生き残った93人は、互いに血のつながった一族だと思わなければいけない」と言って、生存者たちに親族の誓いをさせて、家筋や素性の差を取り払った。その後、追々家屋も再建されたので、3人は、93人の中で、夫を亡くした妻と妻を亡くした 夫とを再婚させ、また子を亡くした老人に親を亡くした子を養子として養わせるなどして、93人全員を実際に一族としてまとめ直し、その門出を酒・肴を贈って祝った。誠に非常時における有力百姓の対応の仕方は興味深い。— 根岸九郎左衛門、『耳袋』 (現代語訳)、中央防災会議 災害教訓の継承に関する専門調査会『1783 天明浅間山噴火 報告書』114頁[98]
つまり鎌原村では、生存者同士(男女)が結婚して新たな家庭を築くなどの出来事があったということである[126]。
出典:Wikipedia
浅間山噴火大和讃
明治の初め、天明の大噴火の実態を後世に伝えようと、「浅間山噴火大和讃」が作られました。
今でも、毎月7日と16日に念仏を唱え、噴火の犠牲者の供養を行なっています。
“ついに八日の巳の刻に 天地も崩るるばかりにて 噴火と共に押し出だし
吾妻川辺銚子まで 村村あまたある中で 一のあわれは鎌原よ
人畜田畑家屋まで 皆泥海の下となり”
和讃は大噴火の悲惨な様子を克明に語っています。しかしながら、
“隣村有志の情けにて 妻なき人の妻となり 主なき人の主となり”
徐々に小さくとも希望の光が差してくる様子が窺えます。
更に、次のように和讃を結んでいます。
“念仏施餓鬼の供養にて 魂魄無明の闇も晴れ 弥陀の浄土へ導かれ
蓮のうてなに招かれて 心のはちすも開かれて 鳴き声止みしも不思議なり
哀れ忘れぬその為に 今ぞ七日の念仏は 末代に伝わる供養なり 慎み深く唱うべし
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏”
絶望から少しずつ、でも確実に希望の兆しが見えつつある様子に救われる思いです。
出典:嬬恋村鎌原における天明三年(1783年)
浅間山噴火犠牲者供養の現状と住民の心理
噴煙が世界史描く花のパリ

天明の大噴火の影響は気流に乗り、国内はおろか世界にも及びました。
噴煙は成層圏に達し、その距離は18,000mともいわれます。太陽からの日光を遮り、日本においては天明の大飢饉が発生しました。
百姓一揆や打ち壊し、逃散などが頻発し、当時の権力者、田沼意次の失脚につながったとも。
気温の低下は北半球レベルに及び、地球の平均気温が1.3度も低下し、農産物の凶作を招きました。
グリーンランドの氷河からは、火山灰が検出されたそうです。
前後して、アイスランドでも巨大噴火があり、浅間山の大噴火と相まって、フランス革命の遠因にもなったといわれます。
前橋市から見る浅間山はとてもきれいで雄大です。敷島公園の近くには大渡橋という橋があり、ここからは浅間山が真正面に見えます。冠雪の浅間山は冬の名画のようです。
自然災害はどうにもなりませんが、是非、この静かで美しい浅間山でいてくれることを願います。